0 はじめに
1 なぜ教育改革が行われるのか
2 学力低下の原因は教育改革にある
3 アーレントの「教育の危機」のことば
4 教師あるいは大人の役割
はじめに
今回はハンナ・アーレントの教育論を取りあげます。
ハンナ・アーレントはドイツ生まれのユダヤ人で、ナチスの台頭とともに、アメリカに亡命し、アメリカで活躍した著名な思想家=哲学者です。
『全体主義の起源』が有名ですが、教育論もとてもおもしろいのです。
第一に、なぜ教育改革が行われるのかということを近代社会の成り立ちから説明しています。
教育改革の本質をすっきりと理解できます。
第二に、教育はどうあるべきか、教師あるいは大人の役割は何かということも近代社会の成り立ちから説明しています。
アーレントの教育論ほど本質を深く掘り下げたものはほとんどないでしょう。
教師あるいは大人が学ばなければ、子どもに学ばせることなどできないというのがアーレントの言いたいことです。
かくいう私もアーレントの教えをどこまで実践できているのか甚だ心許ないところです。
教育はどうあるべきか、教師あるいは大人の役割は何かということをぜひ一緒にアーレントから学びましょう。
1 なぜ教育改革が行われるのか
アーレントによれば、古代ギリシアでは、市民が政治活動を行う公的領域と家族が子どもを生み育てる私的領域が明確に区別されていました。
それに対して、近代においては、公的領域が失われ、私的領域だけが公の関心事となります。
アーレントはこのことを私的でも公的でもない社会的領域の出現と名づけました。
哲学者のフーコー=アガンベンの言葉を借りて言い換えましょう。
古代ギリシアではビオス(政治的な生)とゾーエー(生物学的な生)が明確に区別されていました。
しかし、近代においては政治(生政治)がゾーエー(生物学的な生)を統治することを目指すようになります。
近代国家、とりわけ福祉国家においては、近代以前の死を与える権力とは異なる、生きさせる権力(生権力)が表舞台に登場するようになるのです。
アーレントに戻りましょう。
近代においては、市民が政治活動を行う公的領域が失われ、子どもを生み育てる私的領域が公の関心事となります。
大人は、世界を変革しようとする時、失敗を覚悟で他の大人を説得すること、つまり政治の代わりに、子どもの教育のあり方を改革しようとするようになります。
この点だけに限れば、ポル・ポトのような革命運動もわが国の教育改革も変わりありません。
2 学力低下の原因は教育改革にある
近代において、教育は失われた政治の代償として過剰に現れるようになります。
いわゆる学力低下は、かりにそうしたことがあったとしても、それは教育の不足からではなく、教育の過剰から生まれたものだと言えます。
どういうことでしょうか?
教育改革は、教師に特定の専門科目の知識ではなく、わかりやすく、楽しい授業をする方法などに習熟させようとします。
また、子どもに死んだ知識ではなく、生きた知識の活用、つまり技能を教えようとします。
しかし、教え方の上手い下手ではなく、子どもが知らない世界を知っていることこそが教師の権威の源だったのではないでしょうか?
教え方が上手いだけで、知へのパッションに取り憑かれていない教師からは、かつてはあったかもしれない権威が失われてしまいます。
また、知識の学習を技能の習得に取って代えることは、学習を大人の世界への準備ではなく、幼児レベルの遊びに近づけることになりかねません。
3 アーレントの「教育の危機」のことば
外国語教育の改革に対するアーレントの批判は今でもそのまま通用します。
アーレントのエッセイ「教育の危機」のことばを自由に翻訳してみましょう。
子どもは話すことによって学ぶべきであって、文法や構文を勉強することによって学ぶべきではないと言われています。
子どもは、幼児の頃、遊びながら母語を学んだのと同じしかたで外国語を学ぶべきだと言われています。
このことは、子どもが外国語が話されている環境にいれば、ある程度可能です。
しかし、そうでなければ、これは子どもを幼児のレベルにとどめようとすることなのではないでしょうか。
また、これは、子どもに大人の世界への準備をさせること、遊びではなく仕事の習慣を身につけさせることを放棄することなのではないでしょうか。
4 教師あるいは大人の役割
アーレントによれば、教師あるいは大人の役割は、私的領域とは明確に区別される公的領域の代表として、子どもを公的世界に導くことにあります。
ただし、アーレントのいう公的領域とは「幻想の共同体」である国家のことでも失われた伝統的共同体のことでもありません。
家族や共同体といった私的領域を離れた諸個人が言論を通じて相互に関係を持つ場のことです。
政治とは、職業的な政治家による立法行為ではなく、独立した市民たちによる対話的活動を意味するのです。
したがって、教師あるいは大人がまずなすべきなのは、私的領域を離れた個人として自ら公的領域に現れ出ることであって、それができないことの代償行為としての教育ではありません。
他方、世界への新参者である子どもの役割は古い大人の世界を更新することです。
それに対する教師あるいは大人の役割は、自分たちの古い世界を刷新してもらえるように子どもを導くことです。
子どもの未来のためと言いつつ、自分たちの古くさい夢を子どもに押しつけることではありません。
未来を生きることができるのは子どもだけです。
子どもの代わりに未来を設計しようとすることは、その意図が何であれ、子どもの未来を奪うことにしかならないでしょう。
参考文献
ハンナ・アーレント『過去と未来の間』(みすず書房)